管理者プロフィール

基本情報

・松木 渓(まつき けい)
・株式会社Anchor Design 代表取締役
・1991年3月23日生まれ(32歳)

このページに今までの経験を全て書きましたので、ぜひ見ていただければと思います。

幼少期〜小学生:プロになることを諦めた子ども時代

私は、長野県の安曇野市というところで育ちました。

父と母、2歳下の弟と4人暮らし。
決して裕福な家庭ではありませんでしたが、仲良く幸せに過ごしていました。

父はプロのスノーボード選手でした。
スノーボードだけでなく、夏はダウンヒルというマウンテンバイク競技のプロとしても活動するという、まさに運動神経の鬼でした。笑

そんな父の影響で、私も2歳からスノーボードとマウンテンバイクをはじめ、小学生になる頃には様々な大会で優勝し、それなりに結果を出してきました。
当時の私のことを「天才」と呼ぶ人も多かったと聞いています。

確かに競技の才能はあったと思いますが、私はどんどんスノーボードとマウンテンバイクが嫌いになっていきました。当時の私はTVゲームが大好きで、競技の練習をしているとゲームをやる時間がほとんど無くなってしまうからです。

父親からの過度な期待もプレッシャーとなり、2年生になる前には一歳練習しなくなっていました。私の人生から「プロ選手として活躍する」という選択肢が完全になくなった瞬間でした。

それは同時に「自分の息子をプロ選手にしたい」という父親の夢も消えて無くなってしまったことを意味していて、あの時の父親の失望はとても大きかったと思います。

そして私が小学3年生の時に両親が離婚し、父親は家を出て行ってしまいました。
プロ選手として思うように活躍できなくなった父は、建築事務所に就職し家族を支えてくれていましたが、トラブルが多発し会社は倒産。

給料も未払いの状態でお金の問題が絶えず、あの時の両親は毎日ケンカしていました。

もし、私がプロ選手を目指して練習に励んでいたら、スポンサーがついて家族を少しでも助けられたかもしれない。そうやって自分を責めることも多かったように思います。
それでも、私は自分が好きになれないことで頑張り続けることはできませんでした。

両親が離婚してしまったことは、とても悲しいことでしたが

①人は好きなことじゃないと努力を継続できない
②幸せでいるためにはお金は絶対に必要

この2つの大きな教訓を学ぶことができました。

中学生〜高校生:野球なんてやらなきゃ良かった

中学生になった私は野球部に入部しました。
小6の時、仲の良い友人がみんな野球をやっていたのをきっかけに私も野球を始め、その流れで中学でも野球をすることにしたわけですが、

これが地獄の始まりでした。笑

もともと運動神経は良い方でしたが、周りの友達や先輩が上手すぎて練習についていくのもやっとの状態。辞めたいと思うのに1週間もかかりませんでした。

それでも辞めずに頑張ってこれたのは、監督の存在が大きかったです。
なかなか上達しない自分に丁寧に指導してくれるだけでなく、新入生で1番早く試合に出るチャンスもくれました。

しかし、はじめての試合でエラーを連発し、立ち直れない程のショックを経験することになります。

監督の期待を裏切ってしまったこと、友達にみっともない姿を見られてしまったことが原因で試合に出るのが怖くなり、それ以来、体を思い通りに動かすことが出来なくなってしまいました。(科学的にはイップスという症状らしい)

さらにしばらくして、尊敬していた監督が事件を起こし逮捕されてしまいます。
体が上手く動かせない恐怖と戦いながらなんとか続けていた野球も、監督が突然いなくなったことで完全にやる気を失ってしまいました。

それでも私は中学3年生まで野球を続けました。

それは「最後までやり通したい」というかっこいい理由ではなく、友達の目が気になって辞めづらかったからという情けない理由からです。

友達の影響で何も考えずに始めた野球。
始める前にもっと自分の心と向き合って決断すれば良かったという後悔だけが残った、辛い中学校生活でした。

この3年間で、大切な決断は人に流されず自分の心に向き合って決めないといけないという想いを強く持つとともに、試合でエラーをしてしまった経験から

失敗した人間には価値がない
失敗すると人が離れていってしまう

そんな歪んだ固定概念を持ったまま中学卒業を迎えました。
この固定概念は私が31歳になるまで、ずっと払拭されないままでした。

高校生〜専門学生:社会の厳しさを味わう

嫌な思い出が多い中学生活でしたが、勉強だけは真面目にやっていたおかげで、県内でも偏差値が高い高校に入学。

しかし、中学受験で燃え尽きてしまい堕落した生活を送っていた結果、成績はガタ落ち。
担任の先生にも「なんでそんなに成績が落ちてしまったの?」とかなり心配されていたのを覚えています。

高校3年生になり、周りは大学受験に向けて準備を進めている中、私は将来やりたいことも特に決まっておらず、「高卒で働くのは嫌だな〜」なんて甘い考えから、入試が簡単な県内の専門学校に進学することに。

あの時もっと勉強していれば、将来の選択肢がもっと増えたのに、、と後悔するのはそれから何年も先のことになります。

そして始まった専門学校生活。

私の通っていた学校は資格に強く、ITパスポートや日商簿記2級といった、当時では就職に有利な資格の授業が充実していました。

当時の私にとって「就職に有利な資格」というのは、最強の思考停止アイテムで、資格さえとっておけばなんとかなるだろうと、将来を真剣に考えることをどんどん先延ばしにしていました。

2年制の学校だったため、あっという間に就活が始まります。
いざ就活が始まっても将来を真面目に考えていなかった私は、「ちょうど簿記の資格も取れたし、会計事務所にでも就職しよう」と安易に考え、会計事務所の面接を受け続けました。

しかし、面接結果は連戦連敗。

ほとんどの会計事務所に書類審査で落とされ、運良く面接にたどり着いても絶対に内定には届きませんでした。あの時は内定が出ないと、世間から人格否定されているような気がして、かなりしんどかったのを覚えています。笑

あまりにも内定が出なかったため、会計事務所への就活を断念。
とにかく内定が欲しかった私は、接客業への就活に舵を切ります。

接客業の就活に切り替えた途端、複数社から内定をいただくことに成功。
自分の適正に合わせて、正しい方向に努力をすることの大切さを就活から学びました。

そして、もう1つ。
専門学生時代に大切なことを学ぶことになります。

卒業研究でリーダーの楽しさを知った

就活を終えた自分に待ち構えていたのは、卒業研究でした。

卒業研究のテーマは
「電話注文なしで、ネットから教科書を発注できるシステムを作ること」

当時の先生方は、毎年必要な教科書を膨大な候補の中から選定し、出版社に毎回電話やFAXをして教科書を発注していました。

それをあらゆる手段を使ってシステム化し、先生が電話を使わずに教科書を発注できるようにする、というのが課題です。

私の学校の卒業研究は少し特殊で、クラス内でチームを組み、システムを制作。
制作したシステムを生徒の前でプレゼンし、どのチームのシステムが一番優れていたかを投票で決めるというルールが設けられていました。

そして、優勝チームは市民ホールにて、1000人の前でプレゼンするという機会も与えられる。

今まで、部活にも就活にも情熱を燃やすことができなかった私ですが、この時「絶対に優勝したい」と心の底から思いました。ここで頑張れば、今まで何も成し遂げられなかった自分が変われるような気がしたからです。

私は卒業研究チームのリーダーとなり、チームを優勝に導くことを決意しました。

メンバー全員が、何から手をつけたらいいのかわからない状態からのスタート。
私はまず一人ひとりが今やるべきことに迷わないよう、丁寧に指示を出すことから始めました。
そして毎日「絶対優勝しよう」とメンバーに言い続けました。

すると徐々にメンバーにも変化が現れ、どんどん積極的に動いてくれるようになり、システム開発もトントン拍子で進んでいきました。
本番前には、チーム全員が口を揃えて「優勝しよう」と言えるようになるくらい、良いチームになっていました。

そして迎えた本番で、チームは見事優勝。
1000人の前でプレゼンをする機会を手に入れることができました。

優勝した時にチームみんなが泣いて喜んでいるのを見て、私も涙が止まりませんでした。

今までリーダーとしての経験は全くなかったけれど、熱い想いがあれば人を動かすことができる。想いを伝え続けていれば、自分を支えてくれる味方がどんどん増えていく。

この体験が、今まで何事にも情熱を燃やせなかった私の人生を大きく変えてくれました。

将来はリーダーシップを発揮できる立場になって、いろんな人の人生を変えていける人間になりたい

この時から、いつかは経営者になろうという意識が徐々に芽生えていきました。

20歳〜22歳:家から半径5kmが世界の全てだった

専門学校を卒業した私は、自宅の近くにあった家電量販店の正社員として社会人生活をスタートさせます。

はじめての給料日。
手取り金額は18万円。当時の私には大金でした。(今でも大金ですが)

自分が頑張って働けば、こんなにお金をもらえることができる。
そして、懸命に働いて私たち兄弟を育ててくれた母親に親孝行もできる。
社会人として働けることが嬉しかったし、自分を誇らしく思っていました。

しかし、その喜びも長くは続きませんでした。

当時、一緒に働いていた店長と性格的に全く合わなかったからです。
怒鳴られるようなことはあまりありませんでしたが、人格を否定されるような怒られ方をすることが多く、次第に仕事に行くのが憂鬱になってしまいました。

職場の、それもたった1人と相性が悪かっただけで、こんなにも仕事が辛くなる。
仕事にやる気が持てなくなり、「仕事のできない自分には価値がない」と感じるようになってしまいました。

社会人になった喜びが消えるのってこんなに早いのか、と絶望したことを覚えています。

家から職場までの半径5kmが世界の全てだと思っていた自分にとって、こんなに辛いことはありませんでした。

「もっと仕事ができるようになれば店長から怒られることはなくなる」
「この場所から抜け出せば、新しい自分に出会えるかもしれない」

そう考えた私は、家電量販店を退職して、東京に行くこと決めました。
東京にいる人は、全員もれなく仕事ができる人という謎の偏見があったからです。笑

ただ東京に行ければそれでいい。なので働く場所はどこでもOKでした。

すぐに転職活動を開始し、某有名アパレル会社に無事内定。
(みなさんも絶対に着たことがあるはず)

内定をいただいた次の日に、店長に退職届を提出。
退職届を出す時のあのドキドキ感は、これから先もずっと忘れないと思います。

こうして私は逃げるように家電量販店を退職し、東京の国分寺市で新しい生活のスタートを切りました。

23歳〜25歳:東京シティボーイ編

ずっと憧れていた東京での生活がスタート。

最初のうちは、電車が3分に1本くることに毎日感動していました。笑
(私の地元は1時間に1本しか電車が来ません)

職場の人間関係も良好で、店長にも気に入られ、あっという間に出世。
入社して2年目には店長になることができました。

社会人になってから、はじめて掴むことが出来た小さな成功。
この事実は、「仕事のできない自分に価値はない」と思っていた自分にとって、大きな心の支えになってくれました。

何もかも順風満帆な生活。
自分に自信が持てるようになり、幸福感を感じることもかなり増えました。

しかし、たった1つだけ問題がありました。

それはお金の問題です。

東京に引っ越し、出世して給料も増えた私はすっかり浪費癖がついていました。
特に贅沢をしているわけではないのに、給料日前には全然お金がない。。
そんな生活が毎月続き、「もっとお金があれば、、」と考えることが増えました。

あの時の私がもっとお金を稼げるようになったところで、本質的な問題は何も解決しない。
今の私にはとてもよく理解できます。
ですが、あの時の私はお金を稼ぐことができれば全てが解決すると思っていました。

そんな私は、人生初のセミナーに足を運びます。
参加したのは、有名な著者である本田健さんの「お金のセミナー」
これ以上ないシンプルなタイトルに惹かれ、なんとか捻出したお金で参加を決めました。

「このセミナーに行けば、俺はお金持ちになれる!」

心からそう信じていました。
このセミナーをきっかけに、私の人生は180度変わると願っていました。

しかし、そんな私の生活は何も変わりませんでした。
理由は簡単で「行動しなかったから」です。
こんなにシンプルで当たり前の答えなのに、あの時の私は気づくことができませんでした。

セミナーから3ヶ月経っても、私の苦しい状況は一向に変わらず、セミナー参加前に抱いていた期待感は、一気に自分への失望へと変わっていきました。

その後、支払いの滞納でクレジットカードが使えなくなり、家賃の支払いも難しくなっていた私には、店長というポストを捨て、地元に帰るという選択しか残されていませんでした。

「地元でやりたいことがある」

絞り出したウソの理由で、当時の上司に退職の意向を伝えました。
ジリ貧でお金がないから地元に戻るしかないなんて、死んでも言えません。

私にとって大きな成功体験だった「店長への昇格」
仕事はやりがいがあり、店舗の数字も好調。
部下も私のことを信頼してくれていたと思います。

そんな大切なポジションを、「お金がない」という理由で手放さなくてはならない。

退職が決まり、店舗のスタッフが開いてくれた送別会。
私の退職に、涙を流してくれる部下も少なくありませんでした。

そんな大好きな部下たちを、こんなくだらない理由で失う。
しかも、本当の理由は情けなくて言えないままです。
そう思うと私も悔しくて涙が止まりませんでした。

こうして私は「絶対にお金を稼がなくてはならない」とお金に対して強い執着を抱いたまま、泣く泣く地元に戻ることになります。

26歳〜28歳:年収が高ければ幸せなのか?

情けなく地元に帰ってきた私はすぐに転職活動をはじめます。

人生で2回目の転職活動。

私の頭の中は

やりたいことなんてどうでもいい。とにかくお金を稼げる会社に入ろう。

そんな考えに支配されていました。
仕事内容はほとんど気にせず、給与額が高い会社の求人サイトをひたすら読み漁る毎日。

その頃、周りの友達は新車を買い、結婚して子どもが産まれ、すでにマイホームまで建てているという人が多く、そんな話を聞くたびに今の自分の生活と比較して嫌気がさしていました。

それでも、お金を稼げば全てが解決すると信じて、私の見ていた求人サイトの中で一番給与が高かった、某中古車販売店に入社を決めます。

その会社のネットの口コミはとにかく最悪で
この世に存在する会社の中で、一番ブラックと言っても過言じゃない」とか
こんな会社に入るくらいなら、ホームレスになったほうがマシ
といった感じで、良い口コミは1つもありませんでした笑

ですが、そんな悪い口コミが逆に私のやる気に火をつけてくれました。
大切な職場と仲間を情けない理由でなくした私にとっては、地獄を見るくらい厳しい職場がふさわしいと思っていたからです。

こうして最強ブラック企業と呼ばれる会社へと入社。

悪い口コミを大量に見ていたので覚悟はしていましたが、その覚悟を超えるくらい厳しい職場でした。笑

営業成績が悪い人間は、存在価値がないとはっきり言う会社で、並大抵の精神では1ヶ月も続かない職場だったと今でも思います。
そんな職場で営業経験のない私が通用するはずもなく、2ヶ月間全く成果が出ませんでした。

しかし、当時の上司は私を見捨てずに粘り強く指導してくれました。
厳しい人でしたが愛のある人で、今でもとても感謝しています。

そんな上司のスパルタ指導のおかげで徐々に結果を残せるようになり、入社して1年後に千葉県の店舗の店長を任されることに。

私にとって、2度目となる「店長」というポジション。
厳しい環境で鍛えられ、どこに行っても通用するという自信もありましたし、過去の経験もあって、仕事への情熱は誰にも負けていなかったと思います。

今度こそお金をたくさん稼いで、一緒に働く部下を幸せにする。

この想いが私の原動力の全てでした。

千葉県で店長になった私は、とにかく数字を出すことにこだわりました。
でも、それ以上にこだわったのが「人材育成」です。

卒業研究で味わった、関わる人が一緒に成長していく喜び。
東京で味わった、全てが中途半端に終わってしまった悔しさ。

その全てを、一緒に働く部下のために使おうと決意しました。
結果として、メンバーの数字はどんどん上がり、全国1位の営業マンも輩出。
人間関係も良好で、店舗の数字はどんどん伸びていきました。

この先、どんな仕事をやるとしても関係ない。
関わる人を幸せにできるような人間になりたい。

「全てはお金のため。お金を稼げるようになれば全てが解決する。幸せになれる。」
そんな考えを持って転職した私は、努力の甲斐あって今までで最高の年収を得ていました。
前職で店長をやっていた時の、倍以上の収入はあったと思います。

確かにお金を稼げるようになったことでお金の不安は少なくなったし、いい服が買えるようになったり、美味しいものが食べれるようになったり、嬉しいことは数え切れないくらいありました。

それでも、人材育成から得られる喜びに比べたら微々たるものでした。

確かに人生において、お金はとてつもなく重要なものです。
その考えは今でもこの先も変わらないと思います。

しかし「年収が高い人間は必ず幸せになれる」と思っていた私にとって、お金以上に大切にしたいものを手に入れることができた。これが何より大きかったです。

関わる人を幸せにできるような人間になる

これが私にとって、仕事をする1番の理由になりました。

29歳:結婚を機に独立へ

2020年。
私が29歳の時、結婚を理由に中古車販売店を退職しました。
その時はすでに千葉県の店舗から、地元である長野県の大型店舗を任されており、今まで以上の数字を出している時でした。

ただ、大型店舗に異動になったことで業務はさらに忙しくなり、朝8時に出社して、帰るのが夜中の2時といった生活に。

これだけ聞いたら本当の本当にブラック企業ですね。笑
(当時の私は仕事が好きで、何も感じていませんでしたが、、)

そんな中、当時付き合っていた彼女と結婚。
しばらくして妻が妊娠し、今の仕事を続けていては家事も育児も間違いなく出来ないと思ったので、悩みに悩み抜いた末に退職することにしました。
大好きな職場だったので、退職はかなり辛かったことを覚えています。

こうして私は、生まれた子どもが1歳になるまで家事と育児に専念することを決意。

退職して1週間は激務から解放された喜びもあって、毎日とことん寝るだけの生活をしていました。笑

しかしそんな生活もすぐに飽きてしまい、「とにかく仕事がしたい!」状態に。

そこで私は、家事と育児にもしっかり参加しながらお金を稼げるようになるために、家でできる仕事を探しはじめました。

Twitterで自宅でできそうな仕事を探す毎日。
そんな中で出会ったのが、当時副業として流行っていた「プログラミング」と「動画編集」でした。

最初はプログラミングからスタートしましたが、自分にとってはかなり難しくすぐに挫折。
消去法で残った動画編集に集中することを決めました。

7万円で動画編集が学べる情報商材を購入し、ひたすら動画編集を学ぶ毎日。
動画編集とは相性が良かったのか、無理なく継続することができ、開始して1ヶ月後には簡単な編集はできるようになっていました。

仕事獲得のための営業活動もスタートし、数日後には仕事も獲得。

最初の仕事のことはよく覚えていて、1本の動画を編集して単価が3,000円。
いざ仕事となると予想以上に時間がかかり、時給換算したら100円を切っていました。笑

それでも会社に頼らずにお金を得られたことへの喜びは大きく、このまま動画編集に力を入れて自分の力で稼いでいこうと決意。

もし自分が会社員として働きながら動画編集をしていたら、時給100円以下になった瞬間に投げ出していたと思います。
そういった意味では、大きな期待をせずにスタートできたのは大きかったです。

これからは会社員としてではなく、自分の力でお金を稼いでいこうと決め、動画編集者として独立することにしました。

30歳:高額コンサルを頼んでも人生は変わらない

動画編集者として独立してから1年が経ち、私を取り巻く環境は大きく変わっていました。

私は動画編集チームのリーダーとして10人の動画編集者を雇い、多くのクライアントの案件を請け負うまでに成長。

しかし、その裏で限界も感じていました。
私の働き方はどこまでいっても労働集約型だったので、今以上の成果を出そうと思ったら寝る時間を削るしかなかったからです。

もっと収入を増やそうと、情報商材やnoteを買い漁りました。
自己投資した金額は、総額100万円は超えていたと思います。

しかし、どんな教材を手にしても、私は結果を出すことが出来ませんでした。

Twitterやインスタを見れば、成功している人たちの投稿が溢れている。
金銭的に余裕があるだけでなく、時間的にも余裕がある人たちばかりで、いつしかSNSを見るのも嫌になっていました。

このまま自分1人で頑張っても人生は変わらない

危機感を覚えた私は、少しだけ交流のあったマーケターの方に個人コンサルをお願いすることにしました。

コンサル料金は月額15万円。
当時の私にとってはかなりの大金でしたが、実績も豊富で信頼できるマーケターだったので、最後の望みをかけコンサル契約を結びました。

まずは自分の商品を作るところからスタート。
私が作った商品は「動画編集で月5万円稼げるまでのコンサル」でした

集客のために真剣にTwitterと向き合い、ブログを始め、メルマガを書き、教材用の動画を撮影するなど、できることはなんでもやりました。

そして、Twitterのフォロワーが1000人を超えたあたりで徐々にメルマガ読者が増え始め、私のコンサルも数件ですが売れるようになっていきました。

今まで動画編集スキルを労働力としてしか販売してこなかった私が、はじめて自分の商品を販売するという経験をしたのがこの時でした。

ようやく結果を出すことが出来た安心感。
徐々に人生が変わり始めている感覚がありました。
しかし、それも長くは続きませんでした。

私が、商品の販売を継続できなくなってしまったからです。

やる気がなくなったわけではありません。
コンサルの方の教えは忠実に守っていましたし、行動量も十分だったと思います。

理由は、私自身がコンサルをしていく中で
動画編集のスキルだけでは人生は変わらない」と考えるようになったからです。

語弊がないように言うと、動画編集のスキルで人生が変わった人は数多くいると思います。

動画編集だけで何百万円も稼ぐ人を何人も知っていますし、身近にもフリーランスから法人化して、大企業から大きな仕事をもらえるようになり、順風満帆な生活を送っている人もたくさんいました。

それでも私は、「動画編集だけでは人生は変わらない」と今でも思っています。

もちろん、当時の私のコンサルを受けてくれた方には、持てる力の全てを出し切って、全力で向き合っていたと胸を張って言えます。

サポートもかなり丁寧にやっていた甲斐もあり、コンサルを受けてくれた全員が、動画編集のスキルを身につけて、案件を獲得するところまで到達してくれました。

皆さんから感謝の言葉もいただくことができ、私の販売していた商品の満足度は決して悪くなかったと自負しています。

でも、案件を獲得した後のことを、私は何も伝えることが出来ない。
今の私の力では「動画編集で案件獲得するところまでしか力になれない」とこの時に気づきました。

私が仕事をする上で特に大切にしているのが

・相手の本質的な課題を特定し、その課題を一緒に解決すること。
・関わる人と共に成長し、喜んでもらえること。

この2つを達成するためには、動画編集のスキルだけではどうしようもありませんでした。

私にとってコンサルとは、
新たな視点を提供し、相手の本質的な課題を特定する人」です。
なので、「相手の課題を特定」できないコンサルに価値はないと思っています。

単純に課題を解決するだけなら、私にとってそれはコンサルではなくカウンセリングです。

このままでは大きな価値提供はできないと思った私は、商品の販売を辞め、コンサル契約もストップ。もう一度新しいスタートを切ることに決めました。

社会人の時にあれだけ大切にしていた
関わる人を幸せにできるような仕事をする」という想いを、独立してからの忙しさでいつの間にか忘れてしまっていたことに気づき、改めてお客さんの方を向いて仕事をしようと思えるようになりました。

結局、高額でコンサルを雇っても私の人生は変わりませんでした。
それは自分と向き合わずに、考えることを放棄していたからです。

この人についていけば、私の人生をなんとかしてくれる」という甘えがあった。

自分の人生をコントロールできるのは自分自身だけ、という当たり前のことに、たくさんの時間とお金を失って、改めて気づくことができました。

31歳:法人化と新しい出会い

2022年7月5日
私は個人事業主から、新しい会社を設立して法人化することにしました。

会社名は「株式会社AnchorDesign
アンカーデザインと読みます。

社名に込めた想いは「誰かの人生の支えになり、新しい未来をデザインする

今まで失敗だらけでしたが、自分の生きていく意味を見つけることができ、その想いをきちんと社名に落とし込むことが出来たかなと思っています。

高額コンサル契約をストップし、自分の商品販売も辞めた私は、今いるお客さんの満足度を上げることにひたすら注力しました。

自分が生きる意味を、ひたすら仕事で表現する。
相手に喜んでもらえるように丁寧に仕事をしていたら、どんどんと仕事をいただけるようになっていきました。

思考を放棄することなく、毎日考えた結果が実を結び、今までで一番幸せに仕事に取り組めるようになりました。

法人化してからは、クライアントから「うちの会社のマーケティングをトータルでサポートしてほしい」という依頼も多くいただけるように。

きっと動画編集という1つのスキルに固執していたら、今のような未来はなかったと思います。まだまだ未熟ではありますが、より多くの方に喜んでもらえるようにこれからもマーケティングの力を磨いていくつもりです。

そしてこのブログには、マーケティングの力をつけることによって、自分の人生がどのように変わり、お客さんがどれほど喜んでくれるのかを全て書いていくつもりです。

独立しても思うように収入が伸びず、経済的に不安を感じている方。
マーケティングの力を身につけて、もっと大きな仕事に取り組んでみたい方。

そんな方にとって、有益な情報をお届けできるよう、これからも精一杯ブログを書いていきたいと思います。

32歳:妻との離婚。人生の目的とは何か?

ここまで読んでいただきありがとうございます。

2023年6月1日
私は妻と離婚しました。
理由はいろいろとありますが、浮気や不倫など嫌な理由ではありません。笑

離婚というと、やはりマイナスイメージが大きいですが、私は離婚して本当に良かったと思っています。
そのほうが、お互いが幸せに生きられると確信したからです。

家族と離婚について話し合いを進める中で、「人生の目的とは何か?」を何度も考えました。

人生の目的は人それぞれですが、誰もが「幸せに過ごしたい」と思っているはず。

そして幸せに過ごすためには、
自分の想いや理念に嘘をつかないこと」が大切だと思っています。

私の理念は

・相手の本質的な課題を特定し、その課題を一緒に解決すること。
・関わる人と共に成長し、喜んでもらえること。

そしてこれを達成するために、マーケティングの力が必要不可欠だと思っています。

これから先も私自身の研鑽を怠らず、出会う方とともに発展しながら、生涯仕事に懸命に取り組んでいくつもりです。

その足取りを、ブログとして残すことで、読んでくれた方の人生が少しでも前に進むことを願っています。